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子供が欲しいか?できないと悲しいか?について その③

To bloom or not is not just our choice, but it happens with G-d’s plans…

さて、今回はいよいよ「子供は要らない!本当に欲しくない!」と豪語していた私の気持ちがどのように変化したかの話になる。今年はこのシリーズをひとまずここで締めくくることにする。

結婚してからの私の心境は結婚前とほとんど変わらず、次のような感じだった。よく揺れ動いたものだった。

子供は欲しいが、経済状況は厳しい。私が納得のいくような教育、具体的にはインターナショナル・スクールへ子供を通わせて、自分が育ったような環境に近い環境の中で、自分に似た価値観を受け継いでもらいたいという希望が、そうそう叶わないことが知れている。そのことに対する親としての罪悪感が強くある。

そしてもっと広い視点に立って考えると、これから多くの人々の想像を上回る速さで進むであろう気候変動や、それに伴う食糧不足等の、人類としての厳しい生存条件を思うと、本気でこれ以上人間を増やしてはならないという気持ちにもなる。人類の終焉を目撃することになるかもしれない我が子に何もしてやれないのに、子なぞ産んでどうしようというのか?子の幸せを思えば思うほど、産むことが罪深いことのように思えてならなかった。

自分の理想とする生活とはかけ離れた生活をしていて、しかも夫婦での努力だけではどうにも理想に近づけるのにも限りがある現実の中で、もがき続ける結婚生活約2年。36歳の終わり。しかし、理想の生活をするお金が足りないからといって、心から愛し合っていてできれば子が欲しいと思っている健康な身体の夫婦である私たちが、避妊にお金をかけて子を作らないように努力する必要があるのか?なんだかご飯を食べるな、トイレに行くなと言われているような感じがしないか?そんな風にまで思ったこともある。

この辺りで、何かがぷつんと切れた。切れたというか、堪忍袋が膨らんではち切れ、緒も切れたところから、別の風船が生まれたような、不思議なフェーズに突入した。体内の生物学的本能時計が最終警告アラームを鳴らしたのかもしれない。

37歳を目前にして、突然、10年近くきちんきちんと飲んでいた避妊用のピルを、「もう飲みたくない。」と宣言し、やめた。ピルの副作用による血栓症のリスクが気になったこともある。それにピルを飲んでいるのに、私の身体が「本当は排卵したいのにすごく我慢しているんだぞ!」と訴えているような感覚がこの1年ほど月を経るごとに強くなってきた感もあった。そして何より、夫の献身的な愛情と忍耐強さに日々心打たれて、「この人の子なら欲しいかも…」と思えたということがある。世の中、好きだ好きだと言葉ばかりで何もしない男性も多いが、夫は一生懸命行動することで愛情を示してくれている。彼の私と同じく無類の動物好きという「生き物としての」心の優しさなどを知っていく中で、文字通り何度も恋に落ちて、一体この先どうなるんだろうと感じることも多かった。そして、「そうか、人を好きになりすぎると、人が増える仕組みになっているのか…」と神様が人間の生殖機能を設計されたことにも思いを馳せた。

ユダヤ教では、人間があの世に行くにあたり神様から聞かれる4つの重要な質問として下のようなものがあるとされている。

「誠実に商売(仕事)をしてきたか?定期的にトーラー(聖書)を学ぶ時間を取っていたか?子をもうける(養う)ことに取り組んだか?世界(人類)が救われることを待ち望んできたか?」

(バビロニアン・タルムード シャバット 31aより抜粋)

ユダヤ、キリスト、イスラーム教等の一神教は特に、信者数を獲得するためにも結婚を神様に祝福された合法なものにすることによって、子をもうけ人口を増やすことが奨励される、とも言えるだろう。極めて文化人類学的、かつ自らが信者でなければこその冷静(冷淡?)な言い方とも思えるが…。とにかく、多くの宗教において、お互いを尊重しあう結婚している男女が子をもうけることを良くないとすることは稀だ。

それでも、私は結婚してからも2年近く確固たる意志を持って避妊を続けていた。

夫は子供好きだ。優しい性格で子供の世話も手伝ってくれると確信できた。

それでも、私には自信がなかった。しかし、実際のところ、自信満々で妊娠、出産、育児をしていける親などこの世にいるだろうか?

にもかかわらず、確かに自らの身体と、神様からのメッセージが聞こえたような気がしたのだ。

だからこそ最終的にピルを飲むのを止める直前、私は魂の中の霧が晴れていくように感じた。

命は思い通りにならない。私と夫が現在ちょっと見たところ健康体であっても、子ができるかどうかもわからない。不妊症であるか否かの検査等は一切していなかった。お金がないとか、こんなご時世に子供なんて…とかいうのは子を持たない理由にはなりえない。アフリカの諺でも『生まれた者は産まねばならぬ』という。子ができるならできるということ。生まれたら育てよということで、おそらく育てられるということ。子ができなければできないで、夫婦二人で仲良く生きていくべきだということ。夫婦の愛の結晶は、「人間の子」という形でのみ現れるものではない。ある夫婦の「子」は絵画であったり、またある夫婦の「子」は音楽であったり、日々の食事であったり、その他様々な形での社会への貢献だったりもするのだから。私はそのような素敵な「子」を持つ夫婦をたくさん知っている。お互い若く健康であっても、子ができることが当たり前なわけではないのだし、避妊をやめて自然の流れに身を委ねてみなければできるのかどうかもわからない。しかし悩んで足踏みしていては、いずれ確実に子ができない身体になる。ならば行動すべき時は「今」だ。

子が欲しい人がなかなか子ができず、子を望んでいない男女の間に子ができたりもする。原爆が投下され地獄絵図の中を生き延びた妊婦が、焼け野原で焼け残りのトタン板の上で赤ちゃんを産み落としたというが、彼女が生き延びたこと、生まれてきた赤ちゃんが栄養不足や母親の精神的ショックや被爆にも関わらず、元気に産声を上げたことは、果たして母親と赤ちゃんの意志や能力だけによるのだろうか?

人間の意志は大切だが、自然は人間の意志とは別に、神様からのメッセージを示してくれることも多い。私たちがそれをどう感知し、分析し、自分の意志と合わせて行動に移すのか?

子ができないなら体外受精を。代理母に産んでもらえるならば…。あるいは名も知らぬ人から精子を譲り受けてでも子が欲しい。

そのような思いや考えがあっても、もちろん良いとは思う。しかし、そもそも子が欲しいと思う気持ちがどこから来ているのかを、よくよく突き詰めて考えてみると、案外親達の自分勝手な理由からなのかもしれない…。まあ、私達自身が生きていること自体がそもそも利己的な事なので、簡単には結論付けられない話なのだが。

とにかく私の場合は、もし子ができないのなら、子を持つこととは別の、他にすべきことがあるのだろうと考える。

流産したら、その子には生まれて来られない事情があったのだと考える。

死産したら、生まれてきていたら何か恐ろしい運命が待ち受けていたのかもしれず、天使になって生まれたことでその災難を回避できたのかもしれないと考える。言うまでもなく悲しみは大きいだろうが。

何とか無事に生まれて来たのなら、やはり何かこの世ですべきことがあってのことなのだろうと考える。

こうした目的や現象の理由や原因やその後の見込みというのは、いずれ死んで塵に還る私という小さな人間には、完全に理解できるはずもない。

ある男性が、神を信じる心優しい人が、なぜ不幸に見舞われ苦しまねばならないのか?とラビに質問したところ、

「神様の御意図を理解できない?当たり前だ。

それが理解できたら、あなたが神になれるだろうに!」

と答えたとどこかで読んだが、まさにこの答えは正しいと思う。重要なことは、後になってからじんわりと分かって来ることが多いものだから。

色々コントロールしたくてもできないのが生きるということであって、大切なのは、起こることをどう解釈して、それをどう自分の人生の糧として生き続けるかということだと思う。

あるものが欲しいのに手に入らず泣き暮らしたのに、実はそれが手に入らない方が良かったのだと後で気付くことも多い。

だから、ここぞという何かを感じた時や、どうしても何かがうまくいかない時は、心の準備をしてから自然の流れに乗ることもありだと。今回の事では、子供ができてもできなくても、不安と喜びが半分ずつだと自分に言い聞かせた。子供が欲しくてたまらなかったわけではないから、できなかったとしても、絶望的に悲しいとまでは思わなかったと思う。できたとわかった時も、まず不安に襲われたが、そのあと素直に神様からのプレゼントだと嬉しくも思えた。私は、子どもができてもできなくてもどちらでも良かった。神様に委ねたのだった。

かくして、避妊をやめた直後、さっそく妊娠したというわけだ。私は妊娠したので、以来それを日々精一杯やっている。それだけだ。

10年近くもピルを飲んでいたことだし、すぐに排卵機能が再開するとも限らないと知っていた。夫と私の年齢を鑑みても、子ができなくても何の不思議もないと思っていたので、さすがに「ええっ、もうですか!?」とは感じたけれど、これがまずは、神様からのメッセージなのだと受け止めた。

2017年の秋。神様の御計画により、私は37歳の誕生日の少し前に、小さな小さな命の始まりをお腹の中に宿らせることとなったのだ。