出産の記録② 6月11日

前夜、眠りについてから4時間ほど経った、6月11日の午前3時半頃。

3:30 am
ふと目が覚めるのとほぼ同時に、軽い尿もれのような感覚があり、破水が来たな、と直感。落ち着いてトイレに行く。排尿の後、チョロチョロと止められない水が出て来る。軽く出血もしている。お腹の中でバチンと音がしていきなり大量に破水するのはちょっと怖いと思っていたので、願ったりかなったり。水は生臭みのあるにおいで、これが噂の羊水かと、興味津々。陣痛も程なくしてやって来るなと覚悟を決めてナプキンをあて、ベッドに戻る。旦那様に報告。二人とも落ち着いて、眠れるうちにもう少し寝ることにする。

5:00 am
浅い眠りの中で、軽い生理痛様の痛みが周期的にやって来る。でもまだ眠り続けられる。

7:00 am
お腹の痛みがはっきりしてきたので間隔をざっくり測り始める。5分だったり、8分だったりとバラバラだが、破水しているので病院へ行ったらそのまま入院なのは確か。しかし気持ちはゆったり構えている。

7:30 am
着替えをして病院へ行く準備。そして電話をする。症状と経過を助産師さんに伝えると、入院の準備をして来て下さいと言われる。着替える前に、パジャマを着た大きなお腹の写真を、鏡台の前で撮影。出産は怖いけれど、重くて苦しいお腹を卒業して、ついに未だ見ぬ「彼」に会えると思うと、感慨深くて、同時になんだか寂しいような気持ちになる。

8:30 am
旦那様の運転してくれる車に乗って、お隣さんの紫陽花が梅雨の雨に濡れて咲いているのを今一度ちらっと見て、病院へ出発。破水が段々大量になってくる。途中、旦那様が車を止めて座席にタオルを敷いてくれた。痛みの間隔は数分、長さは1分前後。まだまだ!と思いながら、気分は上々。さあ、出陣だぞ!陣痛の波乗りに出るぞ!と穏やかに意気込む。

9:30 am
病院に到着。車椅子で診察室へ連れて行ってもらい、内診の結果、破水確定。ベテランの女医さん(のちに分娩の際、主に担当して頂くことになる)から、「さぁ~!もう逃げられないわよ!」と言われる。「あはは~、頑張りまっす!」と答える私。そのまま入院となり病棟へ移動。子宮口は2cm程度開いた状態、陣痛は3~5分おきと、狭まってくる。陣痛開始は9時とされた。

10:30 am
病室に荷物を置くが、静かな陣痛室で過ごしますかとすすめられ、移動。朝食べずに来たので、今のうちに何か食べて力をつけなければと思い、旦那様が買って来てくれたサンドウィッチを少々食べる。助産師さん、薬剤師さん、栄養士さんなどがやって来てちょっとした会話をするけれど、陣痛が来る度に「あ、痛い!ちょっと待って下さい…」と会話を中断。皆様慣れていらっしゃって、せかさずに待って下さったのが有難かった。

お昼頃
カレーライスの病院食が運ばれて来るが、陣痛が進んで嘔吐した時のことを考えると、食欲のままに食べる気にはなれず、ほんの数口くらいしか食べられず。オレンジは甘くて美味しかったので完食。私の出産担当の助産師さんが明るい元気な方で、大好きになる。食事の後、陣痛室へ移動。

午後
段々痛みは強くなってくる。間隔も3分位が続く。ずっとお産を脳内シミュレーションしていた通りに、呼吸に集中。ひとつひとつの陣痛の波を大切に、吐く息に痛みを乗せて、息子氏の下降に愛を込めて協力する気持ちで乗り切っていく。気持ちは極めて落ち着いていて、たくさんの助産師さんたちが「とっても上手に呼吸できてますよ!その調子ですよ~。うまく進めば、日付が変わる前にも生まれるかもね!」と励ましてくれる。

7:00 pm
助産師さん二人に診察してもらう。子宮口は8cm、陣痛間隔は2分。色々な体験談を聞くと子宮口が5cmくらいまで開くのに皆様とても苦労されている印象を受けていたので、8cmも開いていると聞いて俄然やる気が増した。全開である10cmまでがんがん進みましょう!という気持ちで、助産師さんに興味本位で「痛みに耐えかねて叫ぶ人は、今くらいの状況までに既に叫んでますかねえ?」と聞くと、「はい、そりゃもう大騒ぎですよ!Yさんはすごく落ちついてますよ~。」とおだてられる。「多分私は歳だから叫ぶ元気があったら落ち着いて息を吐こうって思うから静かなんでしょうねえ、ははは…」と言うと、「いえいえ、それがYさんよりもご高齢の方でも、叫ぶ方暴れる方、結構多いんですよ…。」とのこと。

11:00 pm
陣痛室から分娩室に移動。日付が変わってから生まれるだろうなと予感。

11:30 pm
分娩室が慌ただしくなり、誰かが隣の分娩台に産みに来るのかなと思ったら、緊急帝王切開が必要になった方が出たので、ちょっと行ってきます!と助産師さんたちが出て行った。誰かわからないけれど、一緒にこの時を戦っているお母さんと赤ちゃんに心からの応援を送りつつ、私も旦那様に飲み物を飲ませてもらったり、うちわであおいでもらったりと、手伝ってもらいながら、陣痛の波乗りに耐えていた。

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Eternity felt in golden light

My Angel came down all the way
To meet me, to meet his father
In the delivery room in Nagasaki
Where bright clinical lights of golden colours spotted on my personal parts
With four doctors and about seven midwives cheering me up and bringing all things I asked for
Like a cup of cold water with ice cubes in it
There he came
With all his courage
Conquering all his fears of not being liked by me
Surrendering to all the negative thoughts I’d shouted when he lived in my uterus for nine months
He came down
Through the dark tunnel, my birth canal, his road to the outside world
Occasionally, even risking his life to get choked up by the umbilical cord around his neck
Pushing his way towards this sad world
To prove that we are worth the happiness and joy of life
To make the difference
To be meaningful to the eyes of Hashem
To act even one more good thing to bring the redemption closer
And he was taken to the right side of me
His crying voice so unexpectedly sweet
Like the piercing cries of roosters at dawn
My heart felt the eternity
For the second time in my life
After that morning I spent with the lover whom I treasured but did not love me
When I was the happiest woman in the world to have woken up with him in the tender yellow light
In his room that morning
And knowing that that was the final time I could ever wake up like that in my life
So the happiest and the saddest at the same time, ironically…
Same like that morning, I recall that golden light lit Angel taken away to my right side
So precious
So natural
So true and meant to be it felt
I remember again and again
And tears fill up my eyes
Overwhelming love and gratefulness come up to my throat
That I can’t help starting to cry
That moment I’d remember for the rest of my life
The eternal love from heaven
That is my son, Raffy
Raphael, the Angel of loving kindliness that I could embrace in my arms
In him I found the healing of Hashem
And in his dark brown eyes I saw eternal light of life and the covered, blackest mystery of Hashem’s plan
Or Hashem was right there in his eyes I felt,
As he looked into my eyes on the next day he was born…

出産の記録① 6月10日(日)

2018年6月12日火曜日、夕方6時58分、我が家の新規メンバーが晴れてこの世に降臨した。

まだまだ私の体調も回復途上にあり、夫婦で赤ちゃんのお世話にも慣れないので、無理し過ぎない程度に出産の記録を残しておく。

6月10日、日曜日(39週3日)。

旦那様の仕事はお休み。妊娠末期の苦しみがいよいよ終わりに近づいているのを感じていた日。ベッドから立ち上がる時も、横になる時も、お腹の中で胎児の関節がぐにぐにと私の内臓や子宮の壁を押すため、とにかくきつい。もう限界ですといった感じ。重さも限界。かわいそうな私の足は、トイレに行くために歩くだけでも悲鳴を上げ、妊娠前から体重は14キロ近く増えていて、腰もあとちょっとでビキッといってしまいそうな感満載だった。出産は怖いけれど、もうこれは「出す」しかないなと現実を受け入れるのみ。陣痛についてもさんざんリサーチをし、心と身体の準備も終えていた。

明日は月曜日、だから旦那様が仕事に行っている間に産気づくのもなあ…と思っていた。何となく今夜寝ているうちに何かが始まりそうな予感がすると思いながら、夕方にシャワーも済ませ、いつ破水や陣痛が起きても大丈夫なように入院バッグを再確認。旦那様が作ってくれた美味しいお雑炊を晩ご飯に頂き、覚悟を決めて寝ることにした。

そう、寝る前に、新幹線の車両内で男が関係のない人たちを刃物で刺すという恐ろしい事件が起きたことをネットのニュースで知り、我が息子も元気に生まれたならば、ぜひとも自衛術を習わせなければと思った。ナイフや銃を持った相手からどのようにして攻撃力を奪い、自分の身を守るか?合気道などがいいかもね、と旦那様と動画を観ながら話し合っていた。そして眠気がやって来て、私たちは眠りについた…。

陣痛待ち (心の状態編)

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極めて入り混じった気持ち。

まずは陣痛の痛みに対する恐怖や不安。

これは控えめに言っても、世界中どこを探しても、陣痛の痛みが楽しみな妊婦はまずいないだろう。

 

痛いものは痛いのだ。

私の場合、自己暗示によるソフロロジーの呼吸法を参考に、できるだけリラックスして身体の力を抜いて、痛みは赤ちゃんに会うのに一歩、また一歩と近づくための大切な自然のエネルギーなのだ…!と思いたいので、できるだけイメージトレーニングや呼吸の練習もしてきた。究極の痛みの中で、赤ちゃんに会えるのを楽しみにして、上手に痛みを受け入れ、効果的な陣痛を味わい、うまいこと赤ちゃんをこの世へ出してあげる手伝いをしたい。なぜなら、出産は大いなる自然の営みであるし、きっと世の多くの女性が言うように、赤ちゃんに会えた時、とても嬉しくて感動するのだろうから…。

 

が、ここで大きな問題に私はぶつかる。

人様の赤ちゃんの出産の様子などを動画で観たりすると、それは言葉にもならない感動が胸に湧き上がってきて、自然と涙が出るし、生まれたばかりの赤ちゃんが産声を上げるのを聞くと、誰の子であれ、本能的な愛情があふれてくる。

しかし「自分の子」は…?

 

確かに私は昨年の9月に妊娠した。まるで宝くじのような、素晴らしい生命の神秘抽選に当たったのだ。神様からの贈り物に間違いないと思っている。その妊娠判明から今に至るまで、つわりに苦しみ、思い悩み、涙を流し、笑い、心音を聴いて涙し、吐き気の最中にあってエコー写真を見ては「私の赤ちゃん…!」とつぶやいてはなんともいえない力が湧き上がってくるのを感じ、さらにこの恐ろしく重くなる身体の不調とともに、ここまでやって来た。お腹の中で死んでいるじゃないかと心配して泣きそうになったこともある。とにかく生きていて欲しいと願った。

 

しかし!

私はこの子に会ったことが「まだない」のだ。

話したこともないし、見たこともない。

エコーで顔を見たじゃないか、股間を凝視して、性別まで暴いたではないか、と言われるかもしれない。しかし、この世において、ともに空気を吸いながら同じ場で対面したことはない。だから、お腹の中の息子は、いまだ謎の人物X君なのだ。

 

しかも、望んで恋焦がれて計画的に妊娠したわけでもなく、もともと子供がどちらかというと好きでない私にとって、初めて自分の股の間から出てくる男児を、果たして好きになれるか?自分の子だと感動できるか?可愛いと思えるか?などと、とても不安になる。

 

お腹の中でモニョモニョ動いている彼に対して、言葉に言い尽くせない思いを抱きながら妊娠期間を今まで過ごしてきたことは確か。

 

大切。いとおしい。かけがえのない存在。神様からの贈り物。あまりに大切なので、意にそぐわない人に奪われるくらいなら、いっそのことはじめから誰かにくれてやったほうがまし。私の分身。私の愛する人の複製。この子が幸せになれないのなら、私も一緒に死にたい。私の希望の光。私の人生の苦しみに対する大いなる慰め。などなど…。

 

これらの思いを抱いてきてはいるけれど、彼がこの世へ出てきてしまい、肺呼吸を開始し、産声を上げて生き始めてしまったら、つまり誕生してしまったら…。私の人生は変わってしまう。責任がのしかかる。親になってしまう。この子か私が死ぬまで、彼の幸せだけを願い、彼の苦しみに我が身をよじることになってしまう。それが怖い。もう後には引けなくなってしまう。

 

犬猫の仔を、本能的に「可愛いぃ~~~!♥」と抱き上げて愛するのは簡単だ。でも、生まれてくるのは、自分の子で、人間の子で、喋ったり考えたりするようになる高度な生物なのだ。何たる責任…!手放しで可愛いとか言えないじゃないか!

 

まあ、こんなことを思ってヒステリーを起こし、泣いたり叫んだりしているバカな母なのだが、どうやら彼はそんな母の胎内で最終チェックを冷静に、マイペースで行っているようで、それがまた不憫でならない。

妊娠初期に精神的に悩んで取り乱していた時も、彼は逞しく、しぶとく胎内で生き延びた。そればかりか、私を黙って見守ってくれていたような気すらする。

今も同じ。

「どうしよう!もう生まれてきちゃう!」と焦り、心の準備もできていないとパニックになり、泣き叫びながら体調の辛さの中で文句を言う私を、じっと見守っているような気がする。

「あーあ、ママまたやってるよ…。どうしてそう騒ぐかなあ…。迷惑しちゃうよなあ…。」と。

物も言わず、男らしく、黙ってにんまりしながら、私を見守っているような気がするのだ。

「ママの気持ちが落ち着いた頃を見計らって、降りて行くか…。フン…。でなきゃあ、うっかり出て行って可愛くないとか要らないぞとか言われたら、たまったもんじゃあないからね…!」

と心の中で思いつつ、彼は出てくるタイミングを窺っているのではと感じる。

 

「出ておいで、私の可愛い天使ちゃん…!会いたいよ!待ちきれないよ!ねえ、どうかその可愛いお顔を早く見せておくれ…!」

と心から私が思えた時、彼が出て来てくれるのではないかしら。

 

正直言って、もっと若くて綺麗だった頃に彼に会いたかったよ。

ママはもう37歳になってしまって、昔ほど瑞々しく綺麗ではないし、彼に「ママは可愛くない」と思われたらどうしようと、不安でもあるんだよ。「性格が変だからママ嫌い!」とか思われたら、傷付くんだよ。「どうしてママは他のママと違って英語とかわけのわからない言葉を話すの?そんなの僕、要らない!」とか言われたらもう死にたいって思うほど、不安だよ…。

 

会ってみなければわからないけれど、どのみち会うしかない。

こんなにドキドキするrendezvousは人生で初めてだ。

せいぜい心臓が止まらないように、気を確かに持たねば。

こんな思いの、出産予定日まであと5日、の私でありましたとさ…。

陣痛待ち (身体の状態編)

さて、本日は6月9日。39週3日。

赤ちゃんにとっては、39週から40週(予定日)の間に生まれてくるのが、最も発育状態も外の環境に適応しやすく、望ましいとされているらしい。

まだ産気づいてはいない。

私の身体の状態はというと、ほとんど動けない。体重は妊娠前と比較して14キロ近く増えている。

人生至上、身体がこんなに重くなったことがないので、脚にも腰にもものすごい負担がかかっていて、立ち上がる時も気を付けてゆっくり動かないと腰がビキッといきそうなので、細心の注意を払う。特に頻尿気味なので夜中のトイレに起きる時は要注意!

そして髪の毛が抜けない。シャンプーしたら普通は10本か15本くらいは抜けるのに、妊娠後期に入ってから1本か2本しか抜けない。そして伸びない。ホルモンの力である。

お腹が重く、皮膚も張っていて、とにかく歩くのも10分が限度。肺も胃腸も膀胱も満員電車状態で押しやられていて、呼吸も苦しい。胃は縦ではなく肝臓にぴっちりとくっつけられて横向きに、右肋骨の隅の方へ流されているのを感じる。腸も膀胱も3キロ以上ある胎児の重みを受けて私が立った状態の時は押し潰されている。

無理をして立ち続けたり歩き続けたりすると、脳に血が行かなくなってきてぶっ倒れそうになる。座っていても重さが脚の付け根にかかり、足先が痺れてくるので、すぐに横にならなければならなくなる。

お腹が出過ぎていて、台所や洗面台で作業をしようとしても手が届かず辛い。

よって台所仕事も洗顔もとても大変。台所仕事はほぼ旦那様にお頼りしているという状態なのが辛い…。シャワーを浴びるのも疲れる。転びそうになるし、太腿から下は手が届かないので洗うのに一苦労。

お腹が張る。横になってゆっくりしていると、15分から30分に1度は子宮の収縮を感じる。痛みはないけれど、収縮している間、自分の脈動をこめかみのあたりに感じ、呼吸にも脈動に連動したノイズが入る。子宮収縮による血流の変化によるものらしい。

寝返りを打つ時、ほんの何秒かでも仰向けになると、腹部の大動脈が圧迫される感じが半端なく、静脈からの血液が心臓へ戻れなくなるぞ!という危機的な感覚と不安感が襲う。よって、寝返りはなるべく慎重にしかし素早く行う必要あり。

時々のぼせる。生理前のような感じ。頭痛もあり、その時は血圧が低い模様。

お尻のあたりに胎児の頭が降りて来てスタンバイしている感じがする。

 

とにかく動くのが辛く、これはもう出すしかない、という感じ。

横になるとお腹の重さは重力から多少解放されるものの、張りも起こるし、横しか向けず、持病の頸椎ヘルニアが出ないよう願うばかり。

あとは陣痛が来るのを待つばかり。

ただし、一番初めに来るのがおしるしか、陣痛か、破水かはわからない。

恐怖の陣痛ではある。命懸けの出産である。何が起こるかわからない分娩。

 

しかし生きるも死ぬも、このまま永遠に妊娠しているわけにもいかないので、とにかく「出さねばならぬ」のだ。なるほど、この追い詰められ感によって、世の全ての女性たちは、腹を括るど根性が身に着くわけか…と思っている。

妊娠後期に突入にあたっての振り返り…

妊娠後期に突入にあたっての振り返り…

2018年3月23日現在、妊娠28週と2日。

28週といえば、Third Trimesterである。妊娠後期!

安定期と呼ばれる時期に入ってから、有難いことに仕事が忙しく、しかも引っ越すなら今だ!と大いなるストレスに感じながら引越しなどし、ちょっとほっとしようと思ったところが今度はお腹が重くて歩くのも大変になってきた。

小さな漁港のある、田舎町に引越してきた。

先日、改めてマタニティー・ダイアリを見返して、感慨深く、感謝の気持ちと嬉しさ、不安、恐怖、期待、夢、そして何よりも夫への愛とこの新たな命に対する畏敬の念を新たにした。

ここでお腹の変化の具合を写真で見てみよう。

妊娠6週、赤様はレンティルの大きさ。普通のお腹。

12週。つわりがすごい時期。赤様はライム大に成長。ちょっとお腹もふっくらしてきた。

15週。りんご大に。つわりがおさまってきて、代わりに色々頭で考えられるようになったため、精神的にとても悩んでいた時期。

20週。赤様の性別ほぼ確定。お腹が重くて既に仰向けの姿勢では寝られない。

25週。どんどん大きくなってきた。引越しの日に撮影。マタニティータイツでもきつい感じが…!

服を着ていても妊婦とバレる(笑)体型になり、少し嬉しい。

26週。ストレスフルな引越しを何とか終え、恐怖の食欲暴走が始まった…!

そして本日28週2日。「何月ですか~?」と聞かれる。道を譲ってもらえる。大きなお腹…!

お腹を出すとこんな感じ。昨日の健診では推定体重1300gくらいとのこと。腰や脚に重みがかかっている感じがすごい(;’∀’)

最近は甘いものと炭水化物がやたら食べたくなるのだが、体重が急激に増加しすぎると、妊娠高血圧症候群や妊娠糖尿病などになるリスクが高くなってしまうため、暴走する食欲にブレーキをかけながら、フーフー言いながら暮らしている。

なるべく散歩も家事もしたい。でも息が切れるし、立っていると脚の付け根や腰、背中の筋肉が重量挙げでもしているかのように「重いよ~!!」と悲鳴を上げる。プルプルである。食後はお腹が膨れて苦しくなるし、横になっても縦になってもなかなか楽な姿勢が見つからず苦労することも。昨日も昼食後にスーパーで買い物をしていたら、足がしびれてきて、危うく血の気が引いてうずくまる寸前の状態に…。

なんとも身重な身体になってしまっているが、横になっている時に胎動を感じながら赤様に話しかける時、とても穏やかな気持ちになることが多い。とにかく無事で、大きくなってね、と。

ここからさらに2キロ近くも赤様の体重が増えるのかと思うと、恐怖を覚えるが、身体の神秘的な機能を信じてなんとかやっていこう。

37年も生きてきて一度も使用したことのなかった機能が、遅ればせながらもちゃんと機能しているのだから。こんな高度な機能が備わった身体を私は持っていたのか…と改めて驚く。

6mmだった赤様が、10cmになり、そして1kgを超えているという神秘。ここまで色々あったね。よく今まで生き延びてきてくれたね。これからも、ママと一緒に何とか乗り越えていこうね。

そんなことを思う、今日この頃なのであった…。

 

 

The Refugees of Two Kinds (Part 1 -My Beginning)

When I moved to Africa from Japan as a teenager, I was young and going through a typical “angry teenager phase”. I wasn’t happy at all at school in Japan. Before I hit this phase, I used to love studying and learning new things, making new friends although my father’s job required us, as a family, to move from one city to another within Japan every couple of years. But as I was starting to be taken over by the social pressure as a junior high school student in Japan, I felt suffocated and desperate to death at the age of fourteen. The school asked me which high school I was aiming to enter before I was in my 9th grade. Teachers arranged meetings with students and parents about “your/your child’s ideal career path plan”, which I scoffed and tossed away thinking, who on Earth has an idea of the whole career AND one’s life path, which were to be determined and decided by choosing the “right high school and university”? And they would lead to any teenager’s happiness or even success? Why do I have to be “decided” and “destined” only at fourteen years along my long life? I couldn’t be feeling more fooled than then by such a social norm at the time.

 

No gap year is perceived as an advantage in a youth’s life for a “proper social being to contribute to other fellow Japanese” in Japanese mentality. You have to be young and in good health, immaculately straight-forward and smooth on your resume without much transfers or moves from the elementary school to the university, then to a company or two. Any experiences in more than three companies is not welcomed at job interviews, if lucky enough to remain after sorted on documents, but at least considerably frowned upon and interrogated at the interview as if the interviewee has a “mental disorder” or “social incompatibility” in most companies. Why? Because they desire naïve and ignorant youths who would never question or complain to work overtime for free, to be quiet and obedient slaves for the coming years, if the contract is not just for a few months. To them, employees are like disposable contact lenses, or paper dishes you throw away after the party is over.

 

Of course, not all the companies in Japan are like that “old-minded”. However, especially those cities and towns outside large urban areas like Tokyo and Osaka, tend to be more conservative in their company philosophies and thus leads to excess concentration of population and industry in the metropolitan areas.

 

Now, I have to explain about my background and current situation here.

I lived in Africa and went to a British International School for three years from grade eight to ten. The international environment with students from different backgrounds woke my true self-esteem and made me treasure the richness the world can offer us by being just “yourself”, and that is the key to happiness and peace for the world. The Japanese education that I had been suspicious to obey to when people around me put pressure on me saying, you have to just “listen” to the teachers and “don’t ask questions because it delays the course of the curriculum the teacher is intending to complete” went out of the window in a week or two since I started mingling with my Indian, European, American, African, mixed and other Asian students and teachers in Africa. I felt so silly and frustrated for I couldn’t communicate in English freely at the beginning, nevertheless, I had never felt so alive in the exciting, free and self-responsible learning environment the international school offered. I was so happy, and I treasured each moment I was there, for I knew that once I go back to Japan, I again had to be immersed in that suffocating, conforming schools and social stress. My beginning was in Africa, where I felt alive for the first time in my life.

 

The dreamy years in Africa passed, and I got back to Japan. Then I entered and graduated from a national university in Japan specialised in agriculture, and studied Arabic as a foreign language for a year in the Middle East. I then continued studying Horticulture for my Master’s Degree in one of the privileged universities in England for studying agricultural subjects. I studied hard and obtained my MSc with the help of my family, friends, boyfriend at the time, and supervisor’s great support and encouragement. It was not easy, but I finally made it. I felt so victorious and content. I wanted to contribute to the people and the society that encouraged and appreciated me, which were mostly located in the UK and Europe, rather than Japan. I knew if I were to get back to Japan, I would be too old (26 years old) and have multi-faceted educational background so that Japanese companies would not hire me. So I preferred to stay in the UK to look for a job. But to do so, I needed to get a work visa from my potential employer. I was not an EU citizen, nor one from the Common Wealth, neither was I a native English speaking person or a person with certain amount of cash in my bank account so that I could be legally living in London to look for a job at my own pace. So I was told from those companies in the UK I applied for a job that they would be happy to hire me if I had my own visa for working in the UK, but unfortunately, they couldn’t offer me one for I was just out from the university and didn’t have any professional skills that were ready to be practical in the field, or skills that remarkably surpassed the competing applicants who did not require work visa application procedures.

 

My living expenses flew away so rapidly even before my master’s course finished, and even as I worked as a part-timer as a student, I had to ask my parents to wire me the money to buy a ticket to return to Japan. I had to leave England. Or I would be an illegal resident, which I absolutely wanted to avoid. I respected England and its people, and didn’t want anything to harm my good relationship with them, so I left England in snow after Christmas in 2005. My eyes went blurry with tears welling up as I watched snow falling down on runway. The snow was rare in London, but it kept snowing and the special snow melting procedure had to be done on my plane. My flight was delayed for an hour or so with passengers already on board. I felt as if London was comforting my crying soul, hugging me in the snow saying it didn’t want me to leave either. But eventually the plane took off, as I closed my eyes after seeing London from above for the last time for how long? I never knew.

 

I had good times and bad times after I got back to Japan. But always this feeling lingered in my mind that I did not fit into this nation, the “fellow Japanese people”, and the vague and unclear rules and languages this whole Japanese culture had to throw at me and surround me like the intolerable humidity of Japanese climate. The lack of moral, ethics or the eerie absence of God in people that is different from any of those countries in the world with people who have some sort of faith or religion. I worked, managed to find happiness and fun times with some great people and grew as a person. However, I was a foreigner in Japan always. Just because I speak Japanese fluently doesn’t mean that I have those Japanese “common sense” and average way of thinking and/or behaviours as an immaculate, pure Japanese, which most of the Japanese people who never lived outside of Japan expect subconsciously to the fellow Japanese. How dreadful this is, do you want to know? For example, if I find something that is inefficient at work place and I can suggest some different, better ways to solve or improve the situation, I just friendlily tell my boss or colleagues about it. I tell politely, I confirm here. But their reaction may be totally out of proportion. They start to tell me to be quiet, and just keep doing the current way, or I would be considered as “rude” to the elder members of the office, etc. I say it’s ridiculous, it’s just to improve the work flow! And they go, “Listen, just do what we say.” I reply, “No, sorry but in my opinion, the way I suggest would save 2 hours that’s currently wasted now.” And they finally tell me “Look, I know you are a WESTERN-STYLE woman, but you are a JAPANESE woman to begin with. So don’t just play stuck-up and westernised and do what we say. Aren’t you a proper Japanese?” I either go laughing and respond in sarcastic but honest way, saying I am just me, Japanese or whatever is none of their business and I am just talking about the efficiency of work simply because I don’t want to waste two hours and work overtime with those people who never mind getting home at nine or ten at night. They go quiet, ignore me, and silently force me to work with them overtime, or leave the company forever soon at my own will.

 

This is just an example, but basically, it’s usually in this pattern that I can’t stand the social pressure on me that says “let’s suffer together, because I’m in pain means you should be in pain too!” As much as I can’t take this negative attitude, the “average Japanese people” can’t take my “let’s be happy by making changes and being efficient” attitude. It’s a mystery and the reality of the Japanese mentality. Why suffer more when life is already hard without particular obstacles? Life is too short to my eyes. Those energy wasted on moaning how horrible their work and bosses are should be used to make the world a better place. But my way of thinking is considered cheeky and snob, and an unwanted maverick of the community…